2007年11月27日火曜日

20071127

課題で書いたもの、横山裕一「トラベル」と東泉一郎「未来」について。

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 「未来」と文字の入ったエスカレーターが刻々と動きつづけている。スクリーンの前に立つと、まるで私たちは未来へ誘われていて、一歩ふみこめば未来へ行けてしまうような気分になってしまう。   
 東泉一郎の「未来」をみたとき、私は横山裕一の漫画を思い出した。それは、どちらも作品が白黒で絵のタッチも似ているという事もあるだろうが、なによりどちらも台詞やストーリーがなかったことが影響しているのだろう。  
 横山裕一の漫画「トラベル」は、私が「六本木クロッシング」展で最も気になった作品である。セリフや効果音はほぼ無く、無表情な三人組が、電車に乗って旅をする。お世辞にも凝っているとはいえないストーリーだ。そう考えるととても読んでいられないように思うのだが、なぜかリズミカルに読み進めることができたのである。私は今まで、このような漫画の読み方をしたことがなかった。  
 「トラベル」の中で、時間はコマを読み進めた分だけ経過し、物事は起こり続ける。読み方と想像力によっては、如何様にもストーリーが作れてしまうようにさえ感じる。それに対して「未来」では、エスカレーターが動く他の出来事は起こらず、時間は映像に、もっと正確に言えば「未来」に決められているように感じた。横山の作品を読んでいる時のようなリズミカルな感じはせず、ただ「未来」から刻々と誘われている感じがしたのである。私はそれが、「トラベル」ので無数に続くコマによって、なにかストーリーが裏にある、と私たちが知らず知らずのうちに考えてしまうからでは、と考えた。だが、横山本人は作品解説の中で
「別に何も表現しようとはしていません。ただ思いついた事を書いているだけです。」
と言って元になっているストーリーが無い事を明かしているのだ。 
 1920年代に生まれた映画の手法で、「ファウンドフッテージ」というものがある。方法は一般的なモンタージュと同じだが、目的は全く異なっている。シナリオや撮影条件を完全に無視して、編集室のくずかごのなかからすでに撮影されたフィルムの切れ端を勝手に引用し、モンタージュしてしまう「盗用映画」だ。例えばジョセフコーネルが制作した「ローズ・ホバート」は、ハリウッドの二流作品を集めてつくられたものである。ある映画にとって不要なカットだけ集めてつなげたとしても、観客は無意識のうちに何らかのストーリーを自分の中で生み出してしまうのだ。
 「トラベル」は、まさに漫画版ファウンドフッテージといえるのではないだろうか。思いついた様々なカットを無数に並べて、一冊のマンガ作品をつくりだしてしまう。そのモンタージュの連続が、私たちが不思議と無いはずのストーリーを詮索してしまうことに関係しているのかもしれない。  それに対して「未来」は、未来に誘われるカットがあるだけである。では「未来」に誘い出された先には、何があるのだろうか。私はそれを考えだして間もなく、それが無駄だと気づいた。未来はどうとでも決められるのである。明るいかもしれないし、暗いかもしれない。存在しない、ということもありえるだろう。こうしてみると、「未来」はいわばそれ自体がファウンドフッテージ用の「切れ端」だったのではないのだろうか。エスカレーターを上った先にある自分だけのコマを考える、それを考えることにこの作品のおもしろさがあるのだ。
  

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